命にふさわしい

1998年生まれの随筆とエッセイ

久しぶりにブログ書きます

 

数日前に19歳になりました

 

元太くんより年上になっちゃったなぁなんて

 

みんな色々考えていてみんな色々悩んでいるんだなって、最近思わされることが多くて

 

今まで自分のことばかり人に訴えていた自分が、本当に情けなくなりました

 

どうする?どうしたいの?どうすればいいの?と聞かれるたびに

 

「わからないよ。」と内心思うのが癖になりました

 

先のことを考える余裕がなくて、今に住み着いてる自分が嫌で

 

なんとか先へ進もうと藻搔いても全然進まなくて

 

そんな自分が大嫌いで

 

今でも嫌いです

 

 

外的変化と心境の変化がありました

 

10月に学校を辞めて

 

それからは病院と実家とアパートで自暴自棄になる繰り返し、思うように執筆活動も進まず、後ろ髪を引かれる毎日

 

今までで6番目くらいの地獄の日々だったかもしれません

 

盲目に生きすぎた気がしてます、この数年間

 

 

 

それで、もう再三言ったんですが学校の類はもう諦めます

 

育ちが良くて経済的に余裕のある人が専門学校、大学には向いてるみたいです(今更)

 

そうじゃない人もやっていけるかもしれませんが、自分には無理でした

 

何かを手に入れるために何かを手放す生き方を肯定していける人生を歩めたらいいのにな、なんて

 

学歴や将来を手放して、夢の実現を手に入れたいです

 

手にします

 

自分を信じて。

 

 

ぶっ壊れた心は治らないけど

 

友達や先生や今まで出会って優しくしてくれた人達の存在が今の自分の支えになってます

 

これがどんな薬よりも効きます

 

だから独りぼっちじゃないことを忘れない歳にしたいです。

 

時々出てくる腹黒い自分も普通の自分も優しい自分も全部上手くまとまればいいのになぁ。

 

 

 

 

 

 

ここらへんでお別れ。

 

じゃーね!

負け犬のすゝめ

最近はgleeという海外の学園ミュージカルドラマにハマってる。

その中でgleeの生徒たちが大会で歌った曲にとても感銘を受けた。

gleeクラブの生徒たちは”ダサい”という理由で、校内で勝ち組の生徒や先生からいじめを受けており、自分たちの事を”負け犬”だと感じていた。

そんな時に顧問のシュー先生が”負け犬”をテーマで生徒たち自身に大会用の曲を作らせる。

そして出来上がったのがgleeを代表する人気ソングになったこの曲。


www.youtube.com





Loserというのは”負け犬”という意味です。

この曲の和訳は

私なんか無価値だって思うかもしれないけれど
でもあなたが憧れる人たちは
きっと私みたいな人だったのよ
私なんか化け物だって思うかもしれないけれど 気にしないわ
でもねぇ ちょっと考えてみて
きっと気持ちが変わるだろうから

あなたが私の目の前にぶちまけた泥だけど
簡単にキレイにできたわ
ざまぁみろ
いつの日か あなたが私の名前を叫ぶでしょうね
その時私は振り返って こう言ってやるわ
ざまぁみろ

どうぞあなたの口を動かして 悪口を言ってちょうだい
皆に聞こえるようにね
思う存分私を殴ってちょうだい
全然気にしないから
いずれあなたは気づくでしょうね
あなたがなりたいのは
負け犬だって
私みたいなね

僕をロッカーに押し付けられても
その手を払うことしかできないけれど
僕が君の守護神の時は 君を守るよ
君の敵の事を考えてるんじゃない
だって僕はスーパースターになれるだろうから
君が洗車してる時でも 僕は君を守るよ
あなたが私の目の前にぶちまけた泥だけど
簡単にキレイにできたわ
ざまぁみろ
いつの日か あなたが私の名前を叫ぶでしょうね
その時私は振り返って こう言ってやるわ
ざまぁみろ

どうぞあなたの口を動かして 悪口を言ってちょうだい
皆に聞こえるようにね
思う存分私を殴ってちょうだい
全然気にしないから
いずれあなたは気づくでしょうね
あなたがなりたいのは
負け犬だって
私みたいなね

そう 私みたいな

ねぇそこの君
手でLを作ってあげてごらん
ねぇそこの君
Lを作ってごらん 俺たちは気にしないから
木の枝でも投げろよ
石だって投げてみろ
ロケットみたいに俺たちが進んでいくのを見とけよ
LOSER これが俺達さ

どうぞあなたの口を動かして 悪口を言ってちょうだい
皆に聞こえるようにね
思う存分私を殴ってちょうだい
全然気にしないから
いずれあなたは気づくでしょうね
あなたがなりたいのは
負け犬だって
私みたいなね

どうぞあなたの口を動かして 悪口を言ってちょうだい
皆に聞こえるようにね

思う存分私を殴ってちょうだい
全然気にしないから

いずれあなたは気づくでしょうね
あなたがなりたいのは

負け犬だって
私みたいなね

負け犬だって
私みたいなね

負け犬だって
私みたいなね

となっています。

良い歌詞ですね、かっこいいですね、こういう生き方には憧れます。

”負け犬でもいいじゃないか”そう思える曲でした。


そしてここからは、少し自分語りを。

まず、自分は一族の中では完全な”負け犬”だ。

サマーウォーズという映画では、本家に親戚一同が集合する。

自分の親戚一同が集まれば、サマーウォーズのあの大一族を遥かに超える大人数になる。

父も母も四人兄弟で、その兄弟たちも子供も四人兄弟、その子供も数人。

人数が多すぎていとこの名前も覚えきれていないし、笑っちゃう。

自分が通っていた高校に、いとこ数人も以前通っていたらしいけど、その中の二人は学年一位の成績で生徒会にも入っていて部活では全国大会に出場し、有名大学へも進学し、母校の古くからいる先生方たちの間では有名人だった。

いとこだと話すと驚かれたし、入学当初はとても期待されていて、自分の無能さがばれないように必死だった。特に教師の前では。

親戚のおじさんおばさんは議員に、PTA会長、税理士事務所の設立者ととにかく有能揃い。

いとこは教師に、海外勤務のエリート、唯一の年下いとこ二人は揃って中学受験と、近況を聞くたびに何とも言えない気持ちになる。

自分が”負け犬”だと思い知っては鼻の奥がツンとなっていたたまれなくなる。

だから、親戚のあつまりは嫌いだ。

幼いころは成績も良くてテストは満点ばかり、図工の作品で表彰台に上がったり、野球もサッカーも生徒会活動?もしていてなんでも出来ていたから、一族の集まりでも称賛されていた。

「一族が有名になるカギはお前が握ってるんだからな!期待してるぞ!」と酔ったおじさんに言われ、親戚一同に期待の拍手をされたこともあった。

小学校でも先生同士の会話を盗み聞きしたときに、「〇〇ちゃんは天才だから〇〇高校にも入れると思うわ」という自分についての話を聞いたことがあった。

当時はなんとも思っていなかった。

親には褒められることも期待されることもなかったし、自分の発言や行動は否定され続けてきたから、親戚や先生が勘違いしているんだと思ってた。

親が正しいと思い込んでいたからね。

そして、今では立派な”負け犬”になった。

一族の集まりに行っても誰も話しかけてはくれないし、酒が入ると説教してくる人も出てくるしで、一人外を散歩するのが恒例になった。

いつから負け犬になったんだろう。いつから期待されなくなった?

そんなことを考えていたし、今でもお盆や正月に思い出す。

惨めな気持ちになるんだ、やっぱり。このブログを書いていてもやるせなくなる。





それでは、また。




Ⅿ  

90s'musicが最先端の時代もあった

おはやう、じゃないや。。。


こんな時間だ、お腹減ったなあ。


何か食べると眠くなってしまうから何も食べずにブログ書いて時間を潰す。


やるべきことはあるんだけどやるべきことじゃないことをしてもいいと思うんだ(哲学)。


今ね、
youtu.be
を聴いてる。


ZARD山下達郎ときて今は最後の曲、中山美穂の「遠い街のどこかで」。


全然世代じゃないけど、ましてや聴いたこともないけれど何故かとても惹かれるところがあって、聴き惚れてしまう。


音楽って、歌詞や曲調やその歌い手でリリース時の時代背景までもが表現されているから、90sの曲を聴いただけで自分があたかもその時代にいるような錯覚を覚える。


偶に「あの頃はよかったなぁ。」なんて言う大人を見かける。


”あの頃”を知らなくてもそういう気分になる、その時代の曲を聴いただけで。



あの頃は良かったんだろうな。



ポケベルなんて知らない、だけどポケベルが鳴らなくて恋が待ちぼうけしてるときの切なさは、わかる気がするんだ。


現代に売れている曲も好きだけれど、やはり聴いたことがなくても”懐かしい”と思える曲も素晴らしく素敵で好きだと思った。


槇原敬之を聴いて孤独な夜を過ごす1998年生まれだっているんだよ。



あの頃のミュージシャンに言いたい、現代じゃあ最高のことを最&高っていうんだぜ。


高校教師も森田童子も知らない10代が恋愛してるんだぜ。


負けないで以外のZARDの曲は歌えない世代に選挙権がわたってるんだぜ。


だけどちゃんとあなたたちの曲は時の洗礼を受けて引き継がれているよって。















もうこんな時間だね、のどが渇いた。


今日は昨日受け取れなかった荷物を受け取るんだ。

冬の雨は冷たいんだよなぁ

元テレビ戦士の伊藤元太くんが亡くなっていた。

 

一人の男子大学生が東京の川で溺れて行方不明になっているというニュースは、全国ネットの報道番組で観て知っていた。

 

だけど、まさか彼だとは思いもしなかった。

 

元太くんのTwitterを見つけたのは去年の春だったように思う。

 

京都で一人暮らしを始めた頃、そういえば、あのころ自分と同世代だったテレビ戦士の子供たちは今どうしているのか。

 

ふと気になり、Twitterで覚えている名前を検索したのがきっかけだった。案外本名の漢字もちゃんと覚えているもので、複数のテレビ戦士たちのアカウントはすぐに見つかった。聖夜やりょうきの画像を見てとても懐かしい気分に浸っていたとき、おすすめユーザーからだっただろうか。元太を見つけた。

 

小学生の頃、彼らはテレビの中の遠い存在であり、いつも身近に感じる友達のような存在だった。だからアカウントを見つけた時も、あの頃と同じように「あ、元太だ。」と呼び捨てで呟いていた。

 

Twitterの中の彼も、フォロワー数だけみてもやはり雲の上の存在のように感じたし、キラキラしたツイートを読んで「やっぱり、選ばれた人間は違うなぁ。」なんて考えていた。

 

だけど彼が一般入試で早稲田大学に合格して入学したことや、偏差値の高い私立の進学校に通いながら塾にも通っていたこと、本名とは全く別の名前でアカウントを使ってリアルな友達とやりとりしていて、ちゃんと普通の高校生活を送っていたことなどを知って衝撃を受けた。

 

「あぁ。元太くんは、クラスが同じだったら自然に話をする関係になっていたであろう、いい意味で普通の、ごく普通の同い年の男の子だったんだ。」

 

そう気づいたときからは、彼の事は元太くんと呼ぶようになった。自分の中の彼を見る目が変わったんだと思う。テレビ戦士の伊藤元太としてではなく、一人の人間の伊藤元太として、勉強して希望の大学に合格して一つの目標を達成して、今度は自らコンテストに応募して掴み取った芸能事務所からのスカウトという切符で、芸能界に復帰して大学に通いながら働くという目標に向かっていこうとしている。

 

そんな、自分で道を切り開いていく彼のスタンスに、自分は感銘を受けた。ただただ純粋に、かっこいいと思ったのだ。それは憧れや恋にも似た淡い期待だった。

 

「彼はきっと芸能界でも人気が出る、だからいつか彼に会えるように、自分も創る側の人間になる夢を叶えよう。そして、彼に主人公を演じて貰うんだ。」

 

そういう願望も持つようになった。尚且つ白雪のような恋心も持ち得て、時折彼に恋い焦がれることもあった。いつか会ったらこの恋も成り立つだろうか。そんな風なことも考えていた。

 

だけど、いつかは来なかった。

 

好きな人が、期待していた人が、幼いころの友達のような人が、死んでしまうことがこんなにも辛くて悲しいことだなんて、自分は初めて知った。この感覚はうまく言葉にできない。毎日沢山の人が死んでいるのに今頃になって初めて嘗めた味だった。

 

明日は我が身だなんて言うつもりはない。ただ、この先歳をとるにつれて、元太くんが亡くなっていた知らせを聞いたときと同じ、辛苦や悲しみや言葉に出来ない感覚を味わう経験をしていかなくてはならないことへの計り知れない程の絶望的観測、恐怖心に押し潰されそうになっている自分がいる。

 

いつかなんて無いのだ。自分も、他人も、今日死ぬかもしれない。これが紛れもない事実であることを痛感した。この味に、慣れてしまいたくはないと思う。

 

そして、元太くんには上記の文章を語るような際のコンテンツには絶対になってほしくはないとも思う。「いつ僕も私もあなたも元太くんみたいになるかわからないから、毎日後悔しないように生きよう。」などと自分や他人に喝を入れる材料として、元太くんの名前を使って欲しくない。

 

可哀想、後悔してるだろうな、不幸だ、などのコメントを数え切れないほど見かけた。

 

だけど、終わりが不幸なら、彼の今までの18年3カ月5日の人生の全てが不幸になるのか。

 

自分はそうは思わない。

 

勝手に彼を可哀想な存在にしないでほしい。

 

彼の名前と不幸とを結び付けたりしないでほしい。

 

伊藤元太にあった未来の可能性を嘆かずに、彼が刻んだ一瞬一瞬の軌跡と努力を積み重ねて生き抜いたその功績を讃えてほしい。

 

元太くんの生き様はかっこよかった。

 

元太くんの人生はかっこよかった。

 

元太くんは幸せに生きた。

 

 

そう思っていたいと思う、だからこれからもそんな彼に憧れ、淡い恋心を持ちながら、もう少しだけここにいさせてほしい。

 

 

 

 

 

 

今日は雨が降っていたよ。

 

 

 

 

 

🐦

 

 

びっくりするくらい遠くが見える

 


ずっと ずっと遠くで

 

 

きっと違う道を選んできた

 

 

人が、生まれたと同時にもっている

 


一人一枚もっている

 

 

白いTシャツのことを考えていた

 

 

遺伝子によって生地や素材は違えど

 


真っ白なTシャツ

 


(発達+経験)×時間で、極彩色のTシャツが出来上がる

 

 

春に生まれた子は、

 


ほんのりピンクに染まっていたり

 


青空の下で遊び回った子は

 


胸一面にブルーが広がる

 


幸せに育った子は

 


キラキラ眩しい色を身にまとっていたりして

 


そして、

 


逆もまた然りで

 

 

真っ黒に染まってしまったTシャツを

 


生まれたままの純白に戻す方法を考えていた

 


純粋無垢なホワイトカラーを身にまとい

 


汚れのない感覚を取り戻したいと思った

 


真っ黒に色を足しても黒に呑まれる

 


どうせなら

 


小さい幸せを集めて漆黒の表面にキラキラを散りばめるのがいいのだろうか

 

 

あの星空みたいに

 

 

銀河の音階のように

 

 

黒に呑まれてしまった成長の過程の思い出達の、墓標のように

 

 

 

 

 


──── それらを自らに刻みつけるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢の世界は実在するのか

寝ぼけ眼でブログを書こうと思ったのは、さっき気になる夢を見たからです。


気づくと自分は高校生時代の知り合いと大きなスクリーンのあるシアターにいる。座席には顔見知りや幼馴染の顔がちらほら。久しぶりに見る教師の顔もある。親戚も駆けつけてきたらしい。そして、会場内で一番緊張している自分。状況や会話内容から察するに、どうやら自分はこれから放映される映像作品に出演しているらしいのだ。だが結局、いざ自分も座席に座り、いよいよ放映開始というところで目が覚めてしまう。


そんな夢でした。
目が覚めた瞬間、哲学における独我論の事を思い出しました。

独我論(どくがろん、英: solipsismソリプシズム)は、哲学における認識論の見方の一つで、自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけであり、それ以外のあらゆるものの存在やそれに関する知識・認識は信用できない、とする。


つまり、世界は自分が認識しているから存在するのであって認識されない世界は実在しない、全ては自分の意識の中にのみ存在し自分の意識を離れては何物も存在しない、総合して端的に言うと、世界の全ては幻だという見方のことです。
認識すること抜きで物事の存在を証明する術がない以上、この独我論は完全に否定することが出来ないとされています。


なので、目が覚めたときに夢の中で起きていたことを自分が認識したということは、夢の中の世界が実際に存在するものだということになりますよね。
独我論の見方を借りればの話ですが。

だから

気づくと自分は高校生時代の知り合いと大きなスクリーンのあるシアターにいる。座席には顔見知りや幼馴染の顔がちらほら。久しぶりに見る教師の顔もある。親戚も駆けつけてきたらしい。そして、会場内で一番緊張している自分。状況や会話内容から察するに、どうやら自分はこれから放映される映像作品に出演しているらしいのだ。だが結局、いざ自分も座席に座り、いよいよ放映開始というところで目が覚めてしまう

そういう世界が実際に存在しているということになります。


そして、そういう世界を認識しなくなり意識が離れてしまったとき、つまり夢の内容を忘れてしまったとき。
そのときに、そんな世界は実在しないものになってしまうのです。


人間はなぜか夢の内容をすぐに忘れてしまうようになっているので少し悲しいですね。

記憶のことについては脳科学の分野で、専門外なのでまた勉強しておこうと思います。



さて、今回は哲学における認識論の見方の一つ「独我論」と「夢の中の世界」とを絡めて書いてみました。

思っていた以上に壮大な内容になってしまいましたが、こいつ寝ぼけてるなぐらいのスタンスで読んでいただけてると助かります。

哲学は少しかじった程度なので、矛盾している部分があればコメントやツイッター等でご指摘の方よろしくお願いします。


















あ~眠い、自販機でモンエナ買ってこよ。

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